理解するということ

最近、今までなぁなぁにしたままぶくぶくと貯まってきたツケが一気に噴火したような大きい問題が起きたせいでしんどい毎日を送っている。

 

でもそのおかげで少し気づけたことがある。僕は分かってるふりだけがうまくなっていた。その理解を体で受け止めることを疎かにしてきた。「あぁ、あるよねそういうこと」「わかるわかる、みんなそうらしいよ」「女の子が失うものが多い、不平等だよね」。本やインターネットで聞きかじった知識だけを振りかざすことで理解ある人間になったつもりでいた。それが本当にどういうことなのかをじっくり考えて身につけることをしなかった。言葉の表面をなぞっていただけだった。

 

これまで誰とも深い関係を持ったことがなかった。だからそんなぺらっぺらの鎧でもなんとかなってきた。そして今その身につけた(と思っていた)ものがどんどん吹き飛ばされている。分かったつもりでいただけだったという事実を、今、目の前にいる一番大切な人から突きつけられている。そしてそれは容赦なく僕の生身を責め立てる。

 

理解し合う事は難しい。そのことは”知って”いた。しかし「理解し合ことが難しい」ということがどういうことかを、僕は全く分かってなかった。そして理解しているふりをしてきたツケがいよいよ今回起きた問題と一緒にまわってきた。もっと小出しにしてくれれば払いようもあったのに、さすがに2年分を一気となると凄い額になる。いや、もしかしたらもう何度も支払いを求められていたのかもしれない。そしてそれを後回しにしてきただけなのかもしれない。無意識の内に、理解する重労働を避けてきたのだ。

 

今度こそ理解し合いたいと思う。

もう一度チャンスをもらえるのであれば、ということだけど。